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活動報告集005.映画の原点とカメラ・ワーク~続・覚え書きファイル(2016.11.26)

 さて、まずは前回『覚え書きファイル』の回を受けていただいたコメントをご紹介。  ◇  【コメント】そのやり方ならば『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(シド・フィールドの脚本術)とGoogleスプレットシートなんてどうでしょう。最近試験導入始めているのですが便利ですよ  ◇  このお勧めを受けて拝読したのが『映画を書くためにあなたがしなければならないこと シド・フィールドの脚本術』ですが。  ――これが大当たり。  というわけで、今回は映画から学ぶ作劇法とでも申し上げるべき内容となりました。よろしくお付き合いのほどを。  ◇(2016.11.26)  私、時間を作っては『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』に費やしております。  この『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと~』、まだ冒頭四分の一というところですが。何が心に響くかと言って、“名作に共通するパラダイム(形)はあっても公式はない”というくだりでしょうか。名作に通じる作法はあれど、公式は同じ結果しか生み出さない――つまりパラダイムを参考にはすれど、それが全てと思うなかれ、ということですね。  とは言え、自分の作品を当てはめて振り返るに――何が足りていて何が足りていないかを考えることはできます。  ということで、相変わらず作品に色々注ぎ込もうと足掻き続けてる私です。シド・フィールド先生の脚本術を学んだ暁には頭の整理が進んでいるかどうかお楽しみ、というところでしょうか。  てか何で“小説の書き方”の本じゃなくて“脚本の書き方”の本なわけ? という突っ込みもありましょうが。  実は私、“小説でもカメラ・ワークは重要”と考えてるクチでして。  小説というのは“文章というフォーマットへエンコードした擬似体験”というだけで、読者の方は“脳内で物語を文章から擬似体験へとデコードしている”はずだと捉えているのですよ。何より情景を思い浮かべずに小説読めませんもの私。  その際、情景のアングルであるとか視線誘導とかが文章に織り込まれていると、没入感が増し増しになるはず――というのが私の持論。さて的を射ているか外しているかは、拙作を一読いただければご理解いただける――ように頑張っております。  ◇  【コメント】小説の書き方についてはググればいくらでも出て来るし、個人の経験則もしくは偏見からのドラマツルギーより体系化されたものというと総合芸術にして商業作品でもあり、数行のあらすじ(Script)で数億の金を出資者に出す決断をさせ決められた上映時間で物語を完結し売れなかったら首が物理的に飛ぶ映画に勝るドラマツルギー研究はないかなとオススメ。  ◇  『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』をお勧めいただいた理由はそこにもありましたか!  確かに大博打ですもんね映画製作。なにせ完成・公開するまで一切の投資資金が回収できない。なるほど解りやすく訴えかける作劇法として、ハリウッド映画業界に学ぶべきはまだまだ多そうです。  いかんなぁ拙作、映像的な擬似体験を目指して小説書いていながら、どんどん作品が“映像化不可能!”な方向へ逝っちゃってるような気も(爆)。その辺、うまく尺に収まるように書くというのも大事ですね。  ……とか言いながら拙作、当初は“単行本一冊分くらいの分量”を目標に書き始めたと言ったら信じていただけます(笑)? それが面白くしようとしたら今や30万字が目の前に(爆)。どんだけ見積もり甘いんだか(笑)。  そして書こうとしなければ――あるいは「書きたい!」という熱量がなければ、いくら目が肥えてたところで何の役にも立たない道理。  「これが面白いんだ! これが面白く見えなければ単に俺の魅せ方が拙いんだ!」という一念がなければ、面白い作品ができるわきゃないのはおっしゃる通りだと実感してます。  その上でなお、「拙いシナリオからは、どんな名監督の手にかかっても、良い作品は生まれない」(山田洋次監督の推薦文より)というこの事実。まだまだ研究させていただきます。  ◇  【コメント】中村様がおっしゃるとおり、私も小説はカメラワークが大事だと思っております。と、参考本にもありました笑 とはいえ私の作品ではほとんど触れてないかもしれませんが……。小説を疑似体験と表現されるところがまた素晴らしい! そして同時にそれは、書くことがいかに大変であるかを教えてくれますね。読者に私の世界を体験していただく…。うーん、考えるだけで嬉しく、楽しく思います。  ◇  譲れるところと譲れないところ、ありますよね(頷)。  考えようによっては、譲れないところは譲らなくていい場合があります。ただしその場合、それ以外の部分をごっそり差し出して書き換えてでも譲らない覚悟、これが必要になるものと心得ておけばまず間違いないかと。  そこを考えますと、“真に譲れないところ”は「これを外したら面白くなくなるんだ――自分が!」という“要石”にも相当する部分であるべきところ、ということにもなります。裏返して考えるならば、「これ(“要石”)を面白く提示できないならば、それは自分の技量が拙いからだ!」というくらいに固い意志を込めた要素は、物語をごっそりひっくり返してでも残すべきだと言うことになりますね。これ、作品のテーマさえ引っくり返してでも守り抜く価値があるものか――その辺が判断のしどころと考えることもできましょう。  作者が書いてて面白くない擬似体験ならば、観客(あえてこう書きます)の方々が体験して面白いわけはないのです。作者は同時に最初の観客でもあるわけですから。  私の場合、例えばタイトルは“渋々ながら差し出した”要素です。原題は『クリスタルの鍵』だったのですが、「これではファンタジィと思われても反論できない!」という理由から“差し出す”側に回しました。  逆に、あらすじ冒頭の“【予告編】”は譲れない部分でしたね。“【予告編】”の中身はともかくとして、「本編の要約を垂れ流すのでは最初の観客として許せない」という想いが非常に強いので。なので理想のあらすじは“面白そうなエッセンスを抽出・凝縮して、本編をネタバレさせずに面白そうと思ってもらう”予告編です。ちょうど映画の予告編、その中でも予告編として特に優れたものを理想においてます。  一例はこちら。  『君の名は。』予告2 https://youtu.be/3KR8_igDs1Y  『バットマン』(ティム・バートン監督版、日本版ヴィデオ宣伝用) https://youtu.be/F2vFcY-8gjc (※注:こちらは削除されてしまった模様(泣))  語彙力を深めるのに役立つと思われますのが類義語辞典。早い話がGoogle先生ですね。“○○ 類義語(同義語)”で検索をかけるというヤツです。実際、お世話になることしばしば。密かにお薦めです。  さて“擬似体験”という言葉、これを用いたのにはちょっとこだわりがありまして(笑)。お気に入りいただけてとても光栄です。  つまり、こんな考え方が根底にあるわけなのです――“小説にしろ漫画にしろ映画にしろVRにしろ、物語とは観客に擬似体験(=感情移入して“体感”)してもらいたい事象を、それぞれの媒体に合わせてエンコード(圧縮)したものである”と。  この場合、“観客の皆様には媒体から擬似体験をデコード(展開)して“体感”していただく”ということになります。そこを考えた時、“どのように観客の皆様の脳内にデコード(展開)されれば、より感情移入して“体感”していただけるのか”という命題がある――というのが私の考えておりますエンタテインメントの姿というわけです。  なんか難しく話しちゃってますが、要するに「こっちの方が没頭できるっしょ? 迫力あるっしょ? ね?」という方向性を私なりに追い求めた中の一要素がカメラ・ワークであったというお話。  最初は大変そうに見えますが、やればやっただけ身になります。モチヴェーションを削がない程度には頭に置いておく価値ありかと考えます次第。  そして人間、何よりすごいのは“次第に慣れる”ということです。やったらやっただけ慣れるのです。どんどんしんどくなくなっていくのです。よって“まず書くこと”と“書き続けること”、これがまず第一義です。次が“どうすれば面白くなるのか考えながら書くこと”と“手直しと試行錯誤を恐れないこと”だと私は考えております。大御所の作家先生が原稿用紙を書いちゃポイしてた風景、あれはマジでリアルなのだと今の私なら解ります。  一見ヒィヒィの茨の道が作品の質に繋がって、あまつさえ自分は慣れて腕前を上げていくという一石二鳥。実際ヒィヒィですが、やめられないんですよこれが(笑)。  ◇  【コメント】>小説でもカメラ・ワークは重要  コレ、非常に良く分かります。私も、読むときも書くときも、場面を想像しながら進めるもので。まぁ、そう言いながらも、執筆時に見落としている点は多々ありますが。  ◇  カメラ・ワーク、やっぱり大事ですよね。  読んでても書いてて情景を頭に思い描かずにはおれませんもの私も。  書き手と読み手の視点は基本シンクロするものだと思います次第。  ただし描写できる情報を全部ぶち込んじゃうと、今度は冗長になっちゃいますよね。  ヒトの脳とはよくしたもので、“これぞ大事”と思われる情報を優先して処理するという話を聞いたことがあります。これを考え合わせるなら、描写の勢いを削ぐ情報、これは大胆に切り捨てる必要もあるというわけですね。というわけで文体に勢いをもたせることも可能になるという。  というわけで描写力の実体は恐らく過不足ない情報量の加減とカメラ・ワーク――というのは極論ですが、的を外しているわけでもなさそうです。コメント主様のおっしゃる“見落とし”も実は勢いを維持するための自然な取捨選択、これの結果かもしれませんね。  ただ描写力の優れた作品を拝見するに、結果的に“捨てる”部分も考え合わせてある場合が多いように思われます。と申しますのも、行間からはみ出る雰囲気――この存在感を考えるに、描写されているもの+αが作者の方の頭にはあるのだろうな、と思います次第。よって裏設定であるとかの“切られる要素”は、必ずしも無駄になってはいない――というのが私の考えますところ。  となれば裏設定に力も入ろうってもんです。  ◇  とまあ、我流の考えが表に出るわ出るわ。  何だかんだでハリウッド映画に学んだところの多い私のこと、映画の作劇法には深く感銘を受けているのでありました。  よろしければまたお付き合いくださいませ。  それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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