活動報告集003.「無意味」の「無意味」(2017.10.28)
いつもご覧いただきまして誠にありがとうございます。中村尚裕です。 私はTwitterのアカウントを持っておりますが。 そこで深刻な状況に直面している方に遭遇しました。 よって緊急企画。 今回は活動報告の内容をリアルタイムで掲載します。 それではよろしくお付き合いのほどを。 ◇(2017.10.28) さて私、このような悩みを抱えている方に遭遇しました。 ――自分が目指していることを、寄ってたかって周囲から否定され、それがために自信を失いかけているのです。 「○○なんか将来何の役にも立たない」 「○○なんかできても意味がない」 「なぜ○○ごときのために努力するのか?」 <a href="https://twitter.com/Momo_Drum0219/status/923591127302774784">お悩みのTweetはこちら</a> 私は、彼ら否定組の考えに、真っ向から対立します。 まず大前提。 未来は、いかなる存在にも覗くことはできません。これは誰にも曲げられない事実です。 この事実が意味するところは何か。 ――何人たりとも他人事をして「無意味」などと断じる資格は金輪際ないのです。 実のところ、「何が意味を成すか」などは他の誰が決めることでもありません。 理由は単純、他人は自分に代わって鍛錬を積んでくれるわけでも、苦労してくれるわけでもないからです。 ゆえに。 未来を覗くことが不可能である以上、この事実だけは揺らぎません。 ――己の行動や選択に意味を与えるのは、己自身をおいて他にないのです。 「人生万事塞翁が馬」とも諺にあります。 目先の凶をすら糧にする意気込みで臨んでこそ、より大きな吉を手にする機会を得ることもできるはずなのです。 「どんな行為に意味があって、どんな行為に意味がないか?」とは、私の知る限り愚問の極みです。 フィンセント・ファン・ゴッホの絵で存命中に売れたのは、たったの1枚であったという説があります。 では、彼が志し磨いた絵画の才能は無意味であったでしょうか? ――否。後世の評価を鑑みれば答えは自ずと明らかです。 幼少の頃のトーマス・エジソンは“劣等生”でありました。 では、学校で評価されない彼の才能は無意味であったでしょうか? ――否。彼は長じて発明王として名を馳せ、あまつさえGeneral Erectric社を興して大立者となりました。 彼らの実績を踏まえるに。 「無意味」などと断じる輩は目先のことしか見ていない小者です。つまるところ、「無意味」という評にしてからが、耳を貸す必要のない「無意味」な言だということになります。 ――以上、証明終わり。 未来が絶対に見えない以上、最善ということはあり得ません。 そもそも何が最善かなど、遥か未来になってもなお断じることは不可能なのです。 あるのはただ、己が最も望む未来へ向けて努力を積み重ねる、その意志です。 ――その時その時に“最善”と信じる選択を重ねたなら、そこに後悔は残りません。 ここで申し上げる“最善”とは、単に“最も勝ち目のあると信じるバクチ”でしかありません。 最後の最後に想定外の要因で目論見が引っくり返ることもありましょうが。 それが吉であるか凶であるのか、結局のところ判断はつかないのです。吉凶の判断をつけようとするのは、思慮の浅薄な小者に過ぎません。 よって。 ――ただ“最善”を摸索して怠らなかった、その誇りだけが己の中に“意味”を成すのです。 私の理解する“意味”とは、そういうものです。ヒトが己に対してのみ抱くことのできる誇りです。 よって“意味”を決めるのは、己自身をおいて他にないのです。 以上が私の信条なのでした。 よろしければまたお付き合いくださいませ。 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。 ◇ 【コメント】 以前も申し上げましたが、中村様は一貫して『多様性』について肯定しておられ、ころころ言う事が変わる奴を見るとイラっとする私は、安心して中村様のエッセイを読むことが出来ます。お手本ですぜ。 「これはこうに違いない」「どうせこれはこれだから試すのは無駄」というのは、一見合理性がある様に見えますが、単なる思考停止であると思っています。 私は「無駄の中にこそ神は宿る」という考えがありまして、その無駄が文明や文化を育ててきたのではなかろうか? と愚考する次第。 蒸気が噴き出るのを見て「このパワーなんとかならんか?」と『無駄な事』を考えた結果、蒸気機関が生まれ、産業革命が起こり、劇的に世界が変わったわけで、新しく生まれた文明が正しいのか、正しくないのか、神ならぬ身の私には判断できませんが、少なくとも文明・文化の特異点には『無駄』がある様な気がしてなりません。 お悩みの『否定者』の思考は『無駄』を否定する思考でありまして、自分の信条に掲げるなら自由にすればいいのですが、他者にその価値観を押し付ける事には、私は『否』と答えます。 どこまでが自由で、どこまでが破滅なのか、判断は難しいところではありますがね。 ◇ 未来を見通すことが決してできない以上、多様性は大きな武器です。これは生命誕生依頼磨き続けられてきた歴史ある生存戦略です。 お説の通り、ある“価値観”における“無駄”は、“価値観”が転覆した瞬間にその意義を発揮します。 そしてこの“価値観”というものは、実にあっけなく転覆するものです。 ゆえにこそ、お説の「無駄の中にこそ神は宿る」という言葉は勢い重みを帯びるというもので。 ここでいう“無駄”とは“価値観”や“固定観念”からの逸脱であり、それゆえに多大なブレイクスルーの可能性を秘めてもいます。 私がよく引き合いに出す言葉に「氷山の一角」と言うものがありますが。 これ、こういう解釈もできるのです。 「水上という表面に出る氷山をより大きくそそり立たせたいなら、水面下に沈む“無駄”を承知でより多くの試行錯誤を重ねるべし」というものです。 よって、私の信念の上では、真なる意味での無駄は一片たりとも存在しません。ただ表面に出ない試行錯誤の積み重ねが、表面に出る“結果という氷山”をより大きくそそり立たせるのみです。 さらには。 目先の結果は、長期的な視野に立てば思い通りの意義を持つとは限りません。 巡り巡って、意外な結果を招く場合もあるのです。まさに「人生万事塞翁が馬」。 であるからこそ、その時々の“価値観”からはみ出す多様性は大きな意味を持つのです。 よって、他人事を「無意味」と断じる“否定の押し付け”は、可能性を摘み取る危険な行為でしかないものと、私などは愚行します次第。 貴重なご意見、誠にありがとうございます。 ◇ 【コメント】 ○○の中に入らない単語が浮かばない。 「読書」「なろう」「飲酒」「喫煙」「散歩」「スカイスポーツ」「パソコン」「マラソン」 食事も睡眠も運動も、人それぞれこだわりや好みがありますし、、、 こどもの素朴な言動に答えようと考え始めると哲学になるというのが面白いです。 ◇ まさしく、子供のように素朴な疑問を突き詰めると哲学へ行き着きますね。 そうなのです。「無意味」なるものは一片たりとも存在しないのです。 ただその時々の“価値観”、実に儚い定規で測ることなどおこがましい多様性が、そこにはあるのです。 そして未来においては何がどう転ぶかわからない以上、さらには他人事であればなおのこと、「意味」「無意味」の判断はそれこそ意味を失います。 なればこそ、“意味”を見出すのは己自身をおいて他にないのです。 貴重なご意見、誠にありがとうございます。 ◇ 【コメント】 少なくとも楽譜読めるだけでも違う。水木しげるの魔法陣は本来魔法円なわけです。つまりファンタジーといいつつ20世紀の人である水木しげる先生のパクリのパクリやっていると。図形譜というものを知って知りあいの彫り師や服飾の人たちとオリジナル魔法体系を語り合ったら超面白かった。 ◇ 「“魔法陣から(悪魔を)召喚する描写”は水木しげる先生が元祖」であるお話、とても興味深く拝見しました。 https://togetter.com/li/1069841 「西洋ファンタジィで使われる“魔法円”はすなわち壁(結界)であって、門ではない」と。日本に定着したファンタジィ観がごった煮のパクリであることが窺えて、とても興味を掻き立てられます。 発展して図形譜という思想を考えに入れると。 「意味を持つが普段は使わない言語が魔法を発動させる」というのは『混淆世界ボルドー』(市川博文先生)でなされた描写ではありますが。 五線譜、発展して図形譜が読めるとなると、それだけで一つの異言語を操るに等しいですからね。 視点を翻して応用するに。 楽譜が読めること自体、応用の幅は想像力の及ぶ限り拡がることになります。 この一点を取っただけでも。己の可能性を開拓する材料になりこそすれ、無駄にはならないというわけですね。ここでも「無意味」との言は否定されるわけです。 やはり何がどう役に立つか、早計に断じるべきでないことがよく解りますね。 貴重なご意見、誠にありがとうございます。 ◇ 【コメント】 ブッダ様は王族に生まれて当時におけるほぼ最上の生活を送った後、苦行を行うことで、快楽に溢れた生活にも苦行にも悟りと関係なく中道こそが悟りへの近道と理解しました。 ですから無駄な事と思われることでも体験しないと無駄かどうかはわからないと思いますけどね。 そもそも究極的には人間が生きるために地球環境や動植物を犠牲にして食事と水分をとって労働して生活をすること自体が無駄なことともいえますし。 ◇ 無駄かどうかは体験してみないと判らない――お説、誠にごもっともです。 「無駄」「無意味」を判じるのは、翻って「意義」「意味」を問う行為でもあり、突き詰めると我という存在の意義を問う哲学の領域にまで到達します。 また、「一切の存在を疑うべし」として思索を展開した哲学者デカルトは、徹底的な否定の末に「我思う、ゆえに我あり」という命題へと到達しています。 要は、「意味」も「無意味」も、容易に判ぜられるべきではないのです。結論を急ぐヒトほどこぞって「意味」「無意味」を口にしたがりますが、大体において偉ぶるヒトほど初心者です。その思想に大した深みも説得力もありはしません。 「色即是空、空即是色」とはブッダの思想に連なる般若心経の言葉ですが。 「“色”(存在)も“空”(無)も、ただ“価値観”に依って立つだけの儚い分類でしかなく、本質は同じこと」とここでは説かれています。 例えば、地球上で最高水準の真空(無)が、実は銀という金属(存在)の原子間空洞にこそ存在するように(ゆえに電子=電流が通りやすいのです)。 この一事からも明らかなように。「意味」も「無意味」も、全ては儚い“価値観”の上で成された分類でしかありません。 ならば。 「意味」も「無意味」も、己が定義づけるしかないのです。己の哲学をもって判断するしかないのです。他人が何と言おうとも、己自信が「意味を持つ」と信念を抱いたならば、そこには“己にだけ通用する「意味」”が生まれます。あとは己の信念を貫くのみ。 たとえ挫けたとしても、それをさえ糧にする気概を持ちさえしたならば、挫けたそのことにさえ「意味」が宿ります。 ヒトが存在する「意味」について。 あるいはタンポポの綿毛のごとく、宇宙を渡り地球という生物(ガイア)の“遺伝子(あるいは種)”を運ぶのが役目なのかもしれませんが。 あるいは人工知性を生み出すのが役目かもしれませんが。 恐らく、それはヒトが決めていいものではないのでしょう。 ヒトもただ、多様性の一環に過ぎないのですから。 貴重なご意見、誠にありがとうございます。 ◇ 【コメント】 確かに生きていく上で、音楽を始めとした芸術を必要とする人はそれほど多くはないかもしれません。音楽家になるのなんてやめろという意見が出るのも、異分子を叩き出そうとする島国根性の為せる技と思えば仕方がないと思ってしまいます。 でも、いま一度「職業」というものを考えてみると、この世に無駄な職業なんて一つもない。なぜなら、「それを必要としてくれている人がいるからこそ職業は成り立つ」わけで、音楽を必要としてくれている人がいるから、音楽という文化が生まれ、栄え、持続している。ゆえに、音楽に従事したいという人が出てくるのは、これは当然のことであり、批判される覚えなんてさらさらない。 小説もそうだし、映画もそうだし、絵画もそうです。「役に立つか立たないか」という、コスパ重視な物質的思考で語るのがそもそも誤っているのです。 「それが必要とされているからこそ、その文化はこの世で価値を獲得しているのだ」と考えれば、もっと世界は広がって見えると思うんですけどね。 あと、すみません。美術好きなので指摘させていただきますが、ゴッホについての記述ですが、一枚だけしか売れなかったというのは後年の研究で誤りだったと言われています。 活動期間が10年に満たなかったことと、作品を発表した際に批評家から激賞されている経歴を考えると、もっと売れていたと考えるのが妥当なようです。それでもたかだか数枚から十数枚だと言われているようですが。 狂った挙句に拳銃自殺なんて言う結末を迎えたから、そんなエピソードができてしまったのかもしれません。 ◇ まずはフィンセント・ファン・ゴッホの件。 ご指摘ありがとうございますm(_ _)m! 生前に売れた正確な枚数は調べられませんでしたが、それでもごく一部であることには変わりないようですね。また、1枚だけという説も完全否定されてはいない模様。そこで「わずか1枚であったと言われています」から「わずか1枚であったという説があります」という表現に変更させていただきました。 謹んで御礼申し上げますとともに、ここにご報告させていただきます。 さて、素晴らしいご意見をありがとうございます! まさしくおっしゃる通り、「それを必要としてくれる人がいるからこそ職業は成り立つ」わけであって、「それが必要とされているからこそ、その文化はこの世で価値を獲得しているのだ」ということになりますね。 SONYのAIBOも、コンセプトは「役に立たないモノを作ろう」であったと聞き及びます。それが爆発的人気を博したのは厳然たる事実です。いわゆる「ネットで予約開始と同時に瞬殺完売」という現象、最初に記録したのは他ならぬAIBOだったと記憶しております。 そう、“自分とは違う価値観”の存在を想像できてこそ、ヒトの感性は進歩できるのでありましょう。「自分は理解できないけれど、解る人もいるのだろうね」という具合に。 もっとも、そこに至れないヒトが存在するのも多様性のなせる技、あるいは何かの「意味」を成す日がやってくるかもしれませんが。 ただ、私は声を大にして申し上げたいのです――「そん未熟ななヒトの言葉に心を痛める必要はない」と。 それこそネットの効用で、お悩みのTweet主さんは膨大な声援を受けておられましたが。 ただ、共通する悩みを抱えておいでの方は少なくないものと愚行します次第。 なので、私なりに声を上げさせていただきたく感じたのでありました。 コメント主様のご意見を伺うことができまして光栄です。ありがとうございます。 ◇ 【コメント】 ネット社会では、批判する人の声ばかりが多く取り上げられる気がしますね。結局、批判や否定するのは実に簡単なんですよね。さらに、人のやることを全否定して喜ぶ面倒くさいタイプもいますからね……。 ◇ そう、否定するだけなら実に簡単なんですよね。頭を使わなくてもできることですから。 であるからこそ、私としては「その方向とは違うけど、こういうのはいかが?」という建設的な提案を出す立場に立ちたいと愚考します次第。 もっとも、単純な否定論者は脆弱な“価値観”にすがることしかしませんから、“価値観”さえ引っくり返してみせれば掌を返します。 現金なものですが、それだけに扱いようを知っていれば対処もできるというわけで。 ただ、そういった輩の扱いようをまだ覚えていない若い方が、心ない言葉に傷付くのは見ていられたものではありません。 ゆえにこうして声を上げたくもなるというもので。 ご協力、誠にありがとうございますm(_ _)m。 ◇ 【コメント】 お疲れ様です。中村様を始め、皆様のお言葉が深いですね。 私はワンピースのルフィや、ごくせんの山田先生の様な考え方ななもので……。 「好き事に、周りがごちゃごちゃ言う権利あるかーーーーっ! 胸張って生きてけーーーーっ!!」 と思ってしまいました。 じゃなきゃ、あらふぃふになって『なろう』をやってません。 この歳になって、日本のアチコチにお住まいの仲間がこんなに沢山出来るとは思いませんでしたよ♪♪(≧∇≦) ◇ 深いご共感をいただきまして、誠にありがとうございますm(_ _)m! まさにおっしゃる通り。 好きごとはあくまでも己の自由なんですよね。 自由というからには、他人に迷惑をかけてはならないという意味ももちろん含みますけれど。 もちろんお悩みのTweet主さんに関しては、自由を侵害されている側に当たります。 よって否定組に対しましては、憤るに値します。 ――ですが。 やはり浅薄なヒトに囲まれているより、志を近くする仲間を探した方が精神衛生上前向きで建設的ですね。 理解できないヒトに何を言っても理解されませんから。 それより、お互い高め合う仲間の何と温かいことか。そして刺激になることか。 よってお悩みのTweet主さんは、浅薄な周囲の理解を得ようとするより先に仲間を探すべきでありましょう。 貴重なご意見、誠にありがとうございます。 ◇ 以上のようにたくさんのコメントをいただきました。 こういったご意見の数々を踏まえて考えるに、やはり「意味」も「無意味」もヒトに判断できるものではないと、私は信じてやみません。 即ち、“意味”とは己が己自身に向けて定義づけるものでしかないのです ここから導かれる結論を一言に凝縮するなら。 ――己自身にこそ誇らしくあれ。己のことは己の自由。他人のことは気にするな。 こういうことになるのではないかと愚考します次第。 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。