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活動報告集001.九十九神(2017.01.29)

 こちらでは私の過去の活動報告をご紹介して参ります。よろしくお付き合いのほどを。  まず私こと中村尚裕の根っこにあるものでも、筆頭に挙げられるのはコレではないでしょうか。  というわけで記念すべき第1回は九十九神を巡る活動報告からご紹介。  ◇  皆様、九十九神(付喪神、つくもがみ)というとどのようなイメージを抱いておいででしょうか。  Wikipediaによれば、「長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿ったものである」とされています。特に「九十九(つくも)の年を経たモノ」に宿る、とされたのが語源のようで。  で、この九十九神。ヒトをたぶらかすというお話もあるようですが。  私が思い浮かべますのは――モノを大切にすると恩寵をもたらし、粗末に扱うと罰を与える、そんな『もったいないおばけ』が長じて八百万の神様に仲間入りしたような、そんなイメージ。  さてどうしてそのような話をするのかと申しますと。  私、普段から何かと『もったいない精神』を発揮しております。というより“いいモノを長く使う”主義です。ちょうど“使い捨て”の正反対に位置する考え方ですね。効率主義からもかけ離れております。  そんな私に時々、「使っておくれよ」とばかりにモノの方から寄ってくるような現象に出くわすことがあるのです。思わぬ叩き売りに出会ったり、あるいは譲り先を求める話が舞い込んできたり。はたまた思わぬところで思わぬものが役に立ったり。  ――九十九神の恩寵というものでしょうか。もちろん可能な限り大切に扱うようにしています。あるいは活用してくれる方を探して橋渡ししてみたりとか。  で、私がなぜこんなお伽話めいた話をしているかと申せば。  モノもさることながら、雑学やアイディア、言ってみれば“経験そのもの”も同じではないかという。“何がどこで役に立つかわからない”ということですね。  モノと同じでいつ役に立つものやら判りもしないアイディアや経験をため込む傾向の強い私のこと、意外な経験が意外なところで役に立ったことが一再ならずあるのです。あるいはためたモノやアイディアをどうやって使おうか頭をひねる“頭の体操”が奏功している可能性もありますが。  それこそ九十九神の恩寵なのかもしれません。  “いいモノを長く使う”――意外と役立つ考え方なのではないかと自分では思っておりますが、さていかに。  【コメント】アイデアや経験の溜め込み。分かっているんですが、なかなか難しいですね。  例えばアイディアや経験のため込み、なかなか馬鹿になりません。  そして奇遇なことに、拙作『電脳猟兵×クリスタルの鍵』も根幹は十代の頃に考えたものなのです。  その時に感じた“面白さ”、それをなんとか観客の皆様にお届けできないものか――その想いを良く言えば磨き続け、悪く言えばこじらせ続けて現在の姿に至るという経緯が拙作にもあります。  私がよく使う「これは絶対に面白い! これがつまらなく映るなら、それは自分の技術が拙いからだ!」というフレーズは、実は私が当時から拙作に対して抱き続けている想いに他なりません。学生時代もこの想いを抱きながら講義を受けまくり、必須単位数を無駄に超過したことがあります。  「無駄じゃないのか?」と問われたこともあります。「妙な楽しみ方してるな」と感心されたこともあります。でもその“無駄”や“妙な楽しみ方”に助けられたことが一再ならずあるのは事実です。  それをこの年齢まで磨き続け、あるいはこじらせ続けたからこそできる表現――というのはまさに正鵠というものですね。自身の年輪を含めて、全く何が役に立つものか予想もつかないことばかりです。  だからこそ、モノにも経験にも『もったいない精神』が働く私がいるのでした。  【コメント】かと言ってモノは持ち続けられませんよね。よって取捨選択。ですが、何かをやること、大切にすること、思うこと、感じること。これらの経験は無駄にはならない、なっていないのだと思います。無駄だった、と感じる方がおられるのであれば「いまだその知識(物)を生かせる環境(時系列)に自分は存在していない」と思ったほうが良いのだと考えます。  九十九神はもともと精霊妖怪様に当たりますね。が、何と申しますか、“懐かれている”ような気がするのは私だけ(笑)? とりあえず精霊も妖怪も害を与えなければ悪さをしないモノが多いですしね。大切にして悪いことはないと思います。鬼でも悪ささえしなければ、いるだけで多様性に貢献するじゃないか――ということで、私の節分の掛け声は「福は内!」これのみという割り切りっぷりです。  なお、私に霊感の類はありません(笑)。ただ何となくそう思える事象が重なっているだけのことです。信じる信じないは別として。  モノは確かに持ち続けられるとは限りませんね。その時は必要としている方へのリユースへ回すとして(捨てないのかよ)。  経験はあっても場所を取りません。そして“これが役に立つかもしれない”という思いを持って接すると、実は世界の在りようが変わって見えてきます。経験に対して貪欲に構えられるようになるのですね。  取捨選択も“可能性を選ぶ”という観点で見ると後々後悔がありません。“勝ち目のある方に張った”という確信と、結果が巡り巡って何に生きるか判らないのと、理由は主にこの2つ。  なので私の人生訓は「人生に一片の無駄なし!」です。何が役に立つか判らないんですから、無駄かどうかは死んでなお後々まで判定できないことになるわけです。ゴッホの絵など、死後に初めて評価された成果もあることですし。  コメント主様のおっしゃるように、“(まだ役に立ったことのない知識やモノがあるなら)未だその知識(モノ)を活かせる環境(時系列)に自分が存在していない”だけというわけですね。 (中略)  さて、ことほどかように万年筆や鉄鍋などはまさしく“長く使いたい道具”ですね。そして長く使う中で、その中に込められた思想を理解すると、それもまた貴重な経験となります。  こういった経験(モノ)が役に立つ瞬間、それはまさしく予想もつかない時にやってきます。九十九神が手助けしてくれてるんじゃないかと思いたくなるのはこういう時ですね。  『もったいない精神』に九十九神の恩寵あらんことを(笑)。  【コメント】妖怪・断捨離と九十九神、戦ったらどちらが勝つのでしょうね(笑)。  “断捨離”ですか。やましたひでひこ先生が提唱した考え方ですね。  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E6%8D%A8%E9%9B%A2  “不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的”とありますね。  ポイントは“自身で作り出している重荷からの解放”というところでしょうか。自己流に解釈するなら、“本当に自分に必要なものは何かを見極めて身軽になろう”ということのようです。ただ無闇に捨てることとは違うのですね。  ただ私は“何が役に立つかは、その時にならないと判らない”というスタンスですので“もったいないお化け”の肩を持ってしまいます。生物学的には多様性を確保している方が生存確率は上がりますので、“もったいないお化け”も“妖怪・断捨離”もお互い分をわきまえて共存しようよ、というのがより生存確率の高い方法論かもしれません。つまりは“色んなモノや経験を積み上げているヒト”と“シンプルで身軽になろうとするヒト”、どっちもいた方がいいのです。  その上で勝敗を考えるなら――頭の体操を繰り返して機転を利かせたほうが勝つ、というのが私の考えます結末。どっちにしても考えなしにやってたら強くはなれないよなあ、という考えですね。つまり勝敗は“もったいない/捨てる”の軸では決まらないという(笑)。  ◇  こんなやり取りを皆様と交わさせていただきました。結局捨てないのかよ私(笑)。  挙げ句には断捨離とさえ共存しようとする私なのでありました。  こんな私の精神に九十九神の恩寵あらんことを。  それでは引き続き、よろしくお願いいたします。


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